敗戦の虚脱感が日本を覆っていた1961年頃だ
トリスを飲んでHawaiiへ行こう!
トリスバ− (1955年頃)〜
『洋酒天国』(1956年 PR誌)
懐かしいねえ
佐治 信忠 氏
昭和39年 甲陽卒・第45回生 1945年生・兵庫県人
1968年慶応大経卒・71年カリフォルニア大大学院修了
▲ ソニー商事入社・74年サントリー入社、89年副社長、
2001年3月〜四代目サントリー代表取締役 社長
二代目社長を務めた故佐治敬三前会長の長男
三代目社長の鳥井信一郎氏(現会長)のいとこ
営業とマーケティング統括担当副社長として
鳥井前社長と二人三脚で
サントリーの総合飲料メーカー化を推進された
← (平成9年80周年記念ボトル)
参照:甲陽学院創立85周年記念
故 佐治 敬三氏
大阪大・理卒、甲陽学院育友会 会長:昭和35年度中学・38年度高校、
1919.11/1生〜1999平成11年11/3(文化の日)逝去・享年80歳
1989年11月 勲一等瑞宝章・1999年11月勲一等旭日章
▲ 元サントリ− 取締役 会長・大阪商工会議所会頭
「上方舞を守る会」 の会長、
寿屋(1921年)〜サントリ−:創業(1899)者 故鳥井信治郎氏の二男
● 故佐治敬三氏は1942年大阪大学理学部卒業後、海軍に入り技術大尉。1945年寿屋に入社。1961年父の後を継いで社長就任。1963年社名をサントリーに変更、飛躍的に事業を拡大させる。1985年大阪商工会議所会頭に就任。 戦後、経済成長の中でウイスキーやワインを大衆化させ、日本人の食卓風景を大きく変えた。
平成元(1989)年11月、勲一等瑞宝章受章。1990年3月に会長に退いた後も、サントリー 「中興の祖」 として社内外に大きな影響力を及ぼす。父譲りの 『やってみなはれ』、更に有機化学の世界的権威者恩師 小竹無二雄教授の教え 『常に ”何か新しいこと”(Etwas Neues)に挑戦しろ』 の精神で次々に新分野に挑戦しながら、スマートな 「生活文化企業」 サントリーをつくり上げた。
名言:「消費は美徳というたら、怒られますけど、生活を楽しむことが美徳にならんきゃいかん」● サントリーの社会・文化活動の原点は、創業者 鳥井信治郎氏の 「利益三分主義」 の精神に遡る。事業による利益は顧客へのサービス、事業の拡大、そして社会に還元のために使わなければならないという信念をもち、社会貢献活動に強い熱意を示す。
この社会貢献の精神は、二代目の佐治敬三氏、三代目鳥井信一郎氏(創業者鳥井信治郎氏の長男の長男・現会長)さらに四代目現社長佐治信忠氏にも受け継がれ、現在のサントリーの社会・文化活動に深く根付いている。
企業経営の枠を超えた文化事業を進め、サントリー音楽財団(1969)や同文化財団(1979)を設立したほか、日本の伝統生活文化をテーマにしたサントリー美術館(1961)・コンサート用のサントリーホール(1986)を東京に開設、さらにまた財界活動では関西の論客として一極集中の是正を訴え 「関西復権」 を提唱、関西空港の実現に力を尽すと共に大阪市にサントリーミュージアム「天保山」 (1994)[=左図入場パンフ表紙より:建築設計 安藤忠雄氏] を開設するなど大阪の文化・芸術の発展にも国際的な文化交流にも大きな功績を残した。
クラッシック〜ジャズ音楽を愛好、俳句を嗜み油絵も本職域、なかんずく伝統芸能をこよなく愛し、小唄・仕舞いは旦那芸を超え、さらにTBSブリタニカ社の会長として大百科事典50年振りの追補・復刊をされるなど出版事業にも熱意を注がれた。
● 同社宣伝部から編集長開高 健氏(註:芥川賞受賞)=「洋酒天国(文化・プレイ雑誌)」 発刊を通じ 「酒は文化」 と唱え、山口 瞳氏(註:直木賞受賞)=「トリスを飲んでハワイ・・・・」 「人間らしくやりたいナ−」 らの作家・イラストレイタ-柳原良平氏=CMアニメスタ−のキャラクター 「アンクル・トリス(1958年誕生・国籍不明)」 が輩出したことでも注目を浴びたが、我がよき時代の郷愁だけで忘れ去るには余りにも惜しい!
註:開高健 昭和32年 38回 芥川賞 第五巻 「裸の王様」 =文藝春秋
山口 瞳 昭和37年下半期
第 48回 直木賞 「 江分利満氏の 優雅な 生活」 =オール讀物
(『婦人画報』 昭和36年10月号〜昭和37年8月号:『オール讀物』
昭和38年1月22日決定発表/昭和38年4月号選評掲載)● 佐治信忠社長の ”『夢大きく』 と響きあいたい志” の名言:
自然環境を経営資源のひとつとしてとらえ、「人と自然と響きあう」 という企業理念、人と自然の共生の実現をめざし、努力を重ねたい。
戦後、サントリー飛躍の時代をともにした作家・開高健氏の言葉:「悠々として急げ」。(http://www.suntory.co.jp より引用)
なお 「かつてのようなブームとはいかなくても、最後は必ずウイスキーを楽しむというスタイルを広めたい」 と、現社長佐治信忠氏は復権に向けて強くアピールされている。ついでの話:
【「人と自然と響きあう」 という企業理念による
人と自然の共生の実現に努力する】● この理念は今最大関心事であって惜しみなく喝采を送ります。
思うに、あの広い大都会関東平野にあって不便極まりない鉄道網・成田〜羽田の遠隔飛行場と言うインフラの次世代整備改革の中にあって、文明が自然を淘汰するのではなく、大自然資源を壊すこともなく、自然と文明の相克にあっても、如何にして 「人と自然の共生」 が成り立つのかを暗中模索している関東に対して、方やより遙か狭い関西の其れは琵琶湖・京都から大阪湾・京阪神に至るより緻密なア−バンネットの鉄道網・アクセス至近の関空〜伊丹空港など、日本一いや世界一の天然自然大都会地理的環境条件良好抜群の関西にあって、響きあうべき住民不在で、苦難100年の歴史を持つ六甲山系の緑の自然をいとも無造作に切り崩し、紺碧の瀬戸内の潮流に闇雲に放り込み大阪湾を濁し汚染し其ればかりでなく空域までの環境破壊への埋め立て島を次々と造ることの大義名分は一体何処にあるのだろうか?
今こそ人と自然の相克ではなく、共生を真剣に謙虚に考えるべきではないだろうか。今こそ新しい価値を生み出すための聖域なき協働で新しいユニットを作り (サントリ−不易流行研究所の佐藤友美子部長の主張)、関西圏100年の計として次世代の国造りをして行きたいものだ。
宮崎 駿 監督の作品 「もののけ姫」 からのメッセ−ジもそう受け取った。閑 話 休 題 ***** 伝統芸能 *****
● 東京(江戸)で発達した歌舞伎舞踊に較べ、大衆に発表の場も機会も少なく、強力な擁護体制もなく、そのままでは衰退しかないと思われた関西の古典伝統芸能である日本舞踏の 「上方舞」 (京都・大阪に発達し、上方特有の地歌の伴奏で座敷で舞うことから 「地唄舞」 「座敷舞」 とも呼ばれる) の保存・後継者育成・発展の為には強力な支援の必要性を感じ、1983(昭和58年)関西の有力企業が参集し結成したのが 「上方舞を守る会」 とされる。
この会の設立に当たりその信念と情熱を以て関西財界人に呼び掛け周知に躍起となり奔走されて以来20年終生まで代表幹事を務められたのが、曙ブレ−キ工業元会長故信元安貞氏(1ペ−ジ前出:元トヨタ自販会長加藤誠之氏の項)である。
尚 「上方舞を守る会」 は設立発起人 芝崎四郎氏(花柳流花柳寿南海理事の亡夫君:「通史 花柳流 花の流れ一世紀」 =自由国民社 発行日: 1985年9月・「日本舞踊名曲事典」 郡司正勝氏 共編 =小学館1983年の著書がある)、初代会長 故稲山寛氏(当時:経団連会長)亡き後を住友銀行 故磯田一郎会長(当時、経団連副会長)が継がれ、発足以来のメンバ−だった故佐治敬三氏(当時サントリ−会長)が10年目に会長を引き受けられた。「上方舞を守る会」 設立の功労者故信元安貞氏は、歌舞伎・日本舞踊を初め文楽・能・狂言、清元・長唄・小唄・地唄から新派・新劇に至る演劇、特に日本伝統芸能に造詣深く、「信元虚園」 の雅号でご自身で粋で洒脱な作風の創作・演出もされ、この世界での数多くの著名な伝統芸能の舞台名士の方々との交流も篤く、深く、広く敬愛され惜しまれる大きな存在でした。1999年6月これらの功績に対し文化庁より感謝の長官賞を受賞される。
● 人間国宝 井上流四世京舞家元 井上八千代さん(98歳)の訃報。(2004年3/24=速報)
【井上愛子=本名 片山愛子】日本舞踏の 「上方舞」=「座敷舞」、とりわけ「都おどり」の振り付けを受け継ぎ、「京舞」の発展・普及に尽くされる。井上流の舞の伝統の特徴として、「座敷舞」の技法に文楽人形の振りや能の形を取り入れ、本来の女性美を男性的な抑制された動きのなかで、幽艶な表現をする。
55年重要無形文化財保持者、57年芸術院会員、90年文化勲章 受賞。観世流能シテ方の人間国宝 片山九郎右衛門さんは長男。2000年に孫の三千子さんから、四世京舞家元 井上八千代さんの八千代の名と家元を譲り受け、井上流五世京舞家元 井上八千代(愛子)を襲名。
”傾城阿波の鳴門・十郎兵衛住家の段”
文楽の魅力!
人形浄瑠璃文楽人形人間国宝
塚本和男 =吉田文雀氏
昭和22年甲陽卒・第27回生、
昭和3(1928)年6月8日東京生、関西訛り無し
▲昭和20年8日、二世吉田玉市の預かりとして、文楽座に入座。
昭和25年4月、三世吉田文五郎の門下となり、文雀と改名。
主役の婆・娘・傾城の「女方」から文七・若男・鬼一・舅などの「男」の首までをこなす。
繊細な解釈に依る絶妙な腹芸の人形 「主遣い」
文楽の博識と豊富な経験により、公演では全ての首割り振りを担当されている●「人形浄瑠璃文楽」 の出演構成の一例:
傾城阿波の鳴門・十郎兵衛住家の段
構成・演出=村尚也、浄瑠璃=竹本千歳大夫、三味線=竹澤団七・竹澤団吾
人形=吉田文雀・吉田和生・吉田清三郎・吉田和右・桐竹一輔・吉田玉勢等●1999年10月近松門左衛門原作 「曾根崎心中」 ドイツ巡演
竹本住大夫(人間国宝: 天満屋の段 竹澤宗助)、
豊竹嶋大夫(天神森の段 お初),吉田文雀(手代 徳兵衛) さんらにより
ハンブルクのタリアテアター(Thalia Theater Hamburg Alstertor)で紹介上演された。●『文楽 吉田玉男』 吉田玉男 「讃」 の著書
4人の人間国宝、竹本住大夫・鶴澤寛治・吉田蓑助・吉田文雀による
小川知子・撮影:2003−1演劇出版社 A4変 ¥4,600
◆ 白井健輔氏の紹介
次にご登場の朝日放送経営者で 「放送音楽文化に貢献」 された故 原 清氏を語るとき、35年間同で職場で「文化に貢献」 され、曙ブレ−キ 故信元安貞氏との「一期一会の出会い」の人格に惹かれ、サントリ−故佐治敬三氏とは上方舞を守る会の同人仲間だった一味同心の一人白井健輔氏のキャリアをこの 「交叉点澪抄」 で紹介せていただくことは、繋ぎの人として誠に当を得た非常に意義があるものと考る。
故 原 清 氏
大正16年甲陽卒・第 5 回生、関学高商卒、昭和47〜平成4年同窓会会長
昭和53年〜学校法人辰馬育英会 理事、平成2(1990)年10月18日逝去・享年83歳
▲元 朝日放送の代表取締役 会長 、放送音楽・文化に著しく貢献、関西テレビ界の重鎮。● 1990年10月18日ニュ−ヨ−クの朝日放送事務所開設披露出席後、パリ支局の移転計画用件でパリのロワイヤル・モンソ−ホテルに到着した直後のam0:00過ぎに急遽倒れたまま逝去。 昭和5(1930)年朝日新聞社入社、昭和26(1951)年朝日放送を設立に参画して専務取締役に。後、副社長、社長を経て、昭和58(1983)から代表取締役会長を務める。
● ときのマスコミで訃報では 「音楽文化に貢献」 と簡単に報道されただけ。NHKはいざ知らず、その民放興隆・特に制作サイドがキ−ステ−ションと称する東京偏重に抗して関西での地域民放基盤確立という立派な功績をに対し、しかし憤懣やるかたないことには、その後 「大百科(人名を含め)事典」 にも 「放送・テレビ史」 など 『時代を変えた放送人』 としてどの類のリストにも”原 清” 氏また次項の山口興一氏と共にその名前と経歴は殆ど登場してこない。このペ−ジを編纂・照合するに当たり改めて、その歪さを誠に悲しく思った。・・・・・・・
● 昭和42(1967)年5月甲陽学院創立50周年に当たり由緒ある地(甲子園旧校舎脇)に設立された 『記念碑』 の 「碑文」 は大阪市立大学文学部長故諸戸素純氏(大正14年甲陽第4回生卒)の執筆、原 清氏の修正、滋賀大名誉教授 三原 研田氏(昭和8年甲陽第12回生卒・日展第1回昭和33年・1958特選入賞で有名)の 「書」 よって完成。
尚この碑は昭和53(1978)年苦楽園角石町に竣工した新校舎の中央センタ−ポ−ル下に無事移設された。昭和41(1966)年11月29日甲陽での年一回開催の「時事講演会」にて 『テレビから見た世界』 を講演された▼ 「原 清氏の青春の追憶」
● 満80歳になるというのに、未だにこんなスポ−ツカ−サバンナ”RX−7”(註:ついでの話)で高速道路を突っ走り楽しめるのか?・・・・
「この年で放送会社の会長として、日夜秒刻みの仕事をこなし、年5〜6回の海外出張〜帰国早々出社と言うハ−ドスケジュ−ルの複眼的バイタリティと責任感は、何時何処でどうして生まれたのか?」
「我が人生のスタ−トラインは正に甲陽中学時代であり、健康で在ることと芸術への開眼へと繋がる幸運の奇蹟の時代と言える」 と何憚らず明言されている。● 当時、中学生の映画館入場禁止は普通だったが、自由主義先取の甲陽は其れをOKしたばかりか校内の 「映画文化活動」 にも積極的に奨励するが如き伊賀駒吉郎校長教育方針が、揺り駕篭となり後々の数多の甲陽健児の各界への飛翔の基礎を造ったのかと今更ながら納得させられる。
一方健康に就いては、当時神戸脇之浜に住んだ原さんの通学は、阪神電車で今津停留所で下車するのが正規だが、手前の西宮東口だと定期代も安くなり、甲陽生徒健康指導でも 「歩け歩け」 であるから甲陽までの往復10数キロも何のそのと意気込んだところ、国鉄(今のJR)西宮駅が同じ地理(甲陽迄の歩行距離)条件で定期代が阪神の半額であると判り、後の5年間の通学手段となった。
しかし国鉄は1時間1本という不便至極のダイヤで尋常に乗るためには毎朝毎夕が 「駆け足」 の追っかけこだったが、これが足腰の鍛錬となり今日の健康の源泉であったと回想される。更に甲陽健児の必須教科:甲子園浜の 「遠泳(3里半)海水浴」 水練が 『心臓強化』 を付加した健康強化も見逃せられない。
『鍛えるべき時に鍛えて強くなる肉体と真実一路の逞しい精神力。私にとって甲陽中学時代は正にその好機だったのである』 (昭和 62年満 80歳の手記より) ▲ついでの話
スポ−ツカ−”RX−7” はマツダが創ったロ−タリ−・エンジン搭載の不朽不滅の名車。サバンナRX-7の3代目として平成3(1991)年にアンフィニRX-7(FD3S型)が登場。ブランド名はサバンナからアンフィニに代わる。
エンジンはシーケンシャル・ツインターボ付き13B-REW型2ローターエンジンを搭載し最高出力255psを発生した。さらに加えてフルブレーキング時の制動距離の短縮と安定性の向上が図られた四輪ディスクブレ−キ装着、即ちブレーキング、ターンイン、スロットルオンという一連の流れで、思い通りにクルマの姿勢をコントロールできるブレーキ性能の貢献度は小さくなかった筈であると今でも高く評価されている。
この1975年2代目コスモに採用されてからサバンナ・アンフィニのRX−7そしてル−チェに至るまで本邦初の四輪ディスクブレ−キの開発・製造・OEM標準装着でマツダに貢献してきたのは実に曙ブレ−キ工業株式会社なのである。(当時の曙ブレ−キ信元社長の愛車も2台目「コスモ」であった)● (ABC)朝日放送株式会社(Asahi Broadcasting Corporation)
創立 昭和26年3月15日、資本金18億円、放送法および有線放送法による一般放送事業 他
本社 大阪市北区大淀南2丁目2番48号
東京支社 東京都港区芝公園2丁目6番3号
ABC会館(ホ−ル)内:1976年、芝公園の豊かな緑に囲まれて東京都港区に開館。音楽,舞踊,演劇といった創作活動をはじめ,講演会やセミナーなど幅広く利用されている。定員500名(客席400名)とコンパクトで、照明・音響はテレビ・ラジオの番組制作にも適した設備を完備。充実した設備と優れた音響効果によって、観客を素敵で感動的な空間へと誘う。
● 参考:関東・関西 民放テレビ局 時系列表
日本科学技術振興財団
読売・毎日・朝日 TBS
東京12チャンネル
日本教育テレビNET
関東 テレビ東京TX
フジテレビCX
日本テレビNTV
東京読売東京放送 TBS
ラジオ東京・東京毎日全国朝日放送ANB
テレビ朝日関西
テレビ大阪TVO
関西テレビKTV
讀賣テレビYTV
毎日放送 MBS
(大阪テレビ)
朝日放送 ABC中部 テレビ愛知TVA 東海テレビTHK 中京テレビCTV 中部日本放送CBC 名古屋テレビNBN 山陽 テレビせとうちTSC 岡山放送OHK 西日本放送RNC 山陽放送RSK 瀬戸内放送 KSB
更なる放送文化の貢献者!
山口 興一 氏
昭和2年甲陽卒・第 6 回生、 京都大法卒
▲元 関西テレビ放送(株)の代表取締役 社長、阪急電鉄副社長、新阪急ホテル 監査役
現 名誉顧問昭和58(1983)年4月25日甲陽の進学偏重気風に活を入れ檄を飛ばすべく開催された 「土曜(教養)講座」 で 『阪急よもやま話』 の講演をされた。
甲陽ファミリ−の飛翔
大地のほてり”出で出る”傑物!
千草 宗一郎 氏
(ちぐさ・そういちろう)
昭和38年甲陽卒・第 44 回生、68年(昭43年) 慶応大文卒、
69年関西テレビ放送入社。制作部、03年取締役。兵庫県出身
関西テレビの生え抜きで、平成2年まで放送された「エンドレスナイト」などを担当した
名物プロデューサーとして知られる関西テレビ放送は16日、出馬迪男社長(68)が会長に就任し、
6月下旬に千草宗一郎取締役(61)が社長に昇格、
小林公平会長(77)は相談役に退くするトップ人事を内定
また、阪急ホールディングスの角和夫社長(56)を非常勤の代表取締役として招く。
出馬社長は、フジテレビジョンの出身。今年6月で就任後4年となることから、若返りを図る。
いずれも、6月下旬の定時株主総会後の取締役会で正式決定する。(2005/5/16)
−2−おわり
考証・引用・参考出典 『甲陽学院創立70周年記念誌』 『学院誌 資料編第一輯』【 「交叉点澪抄」表紙へ戻る 】
【 「交叉点澪抄」Indexへ戻る 】
加藤誠之・信元安貞(略敬称)【−1−へ戻る 】
山野井萬・森下重好・別当薫・小前博文・日下章(略敬称【−3−へ進む 】
濱口博章(略敬称)【−4−へ進む 】
伊藤明・松村矩雄(略敬称【−5−へ進む 】
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