日本の自動車輸出の神様
加藤 誠之氏 
大正14年 
甲陽卒第4回生 関学高商卒
元 トヨタ自動車販売株式会社 会長

 昭和 51(1976)年 「トヨタ自動車工業株式会社」 270万台の車を生産。
昭和25年に神谷正太郎が作った「トヨタ自動車販売株式会社」で其れを売った
遂にトヨタ車はVWを抜いて米国の自動車輸入市場のトップに踊り出た。
”販売の神様”と賞賛された。  (ゲップ=割賦販売制度の開拓・実現)
 
昭和13(1938)年 「トヨダ自動車」 創業以来実に2000万台超を売り尽くし、自動車産業を日本産業の根幹となし、日本経済発展の基礎を確立した。 

豊田自動織機製作所 自動車部から独立してトヨダ自動車工業設立の昭和12年8月〜昭和25年豊田喜一郎社長・〜36年石田退三社長・〜42年中川不器男社長・〜57年豊田英二社長(57〜会長)・57年7月工販合併で豊田章一郎社長 。
 
神谷正太郎氏は日本GM大阪本社を出て、昭和10年豊田自動織機
加藤誠之氏を伴い入社
昭和20年終戦直後の頃、加藤氏はトヨダ自動車製品部 豊田英二取締役部長とその部下の次長と言う関係にある。昭和25年トヨダ自動車がピンチとなりトヨダ再建の為の銀行融資の条件が販売部門分離と言うことで、4月「トヨタ自動車販売」 設立時に神谷・加藤両氏は自販へ移籍する。▲                     

遡ること20年前の昭和30年、未だ高速道路も持たぬ日本が車王国の米国に玩具の如き「トヨペット・クラウン」 を輸出すなどとは狂気の沙汰と嘲笑されたが、VWをトップにヨ−ロッパ小型車が5%を占める米国市場も、いずれ小型車輸入制限に出るだろうから、今こそ輸出の実績を作って置くべき時とばかり、トヨタに来る以前のGM大阪本社副支配人時代から全幅の信頼をよせる部下 加藤誠之氏に全面的協力を求めた。
 
二人は対米輸出に本格的挑戦すべく戦略展開。
昭和50年神谷正太郎氏(会長〜54年名誉会長・55年12月逝去)は40年以来の戦友である社長の椅子を譲り後事を託するに足る唯一の同士こそ、それは加藤誠之氏以外にいないと引確信し退に踏み切った。
 
昭和54年後任は山本定蔵社長。

その年の1月レ−ガン政権が発足した1981(昭和56年)年から1983年までの3年は、アメリカ自動車メ−カ−Big3の存続の危機に迫るほどの苦境が、ミシガン州デトロイトだけでなくアメリカ産業の基盤をも弱体化させ、不況の中で吹き荒れたマネ−ゲ−ム風潮の嵐は、アメリカ経済をも深刻な危機に陥れた。

 寡占化独占による拮抗競争の鈍化、株主一辺倒の利益のみを追求し、生産・開発・消費者ニ−ズと安心を提供する品質向上の軽視・保温室の中での労組とトップの安穏な妥協などがデトロイト没落の主原因であり、いわゆる豊富で安価な石油に支えられて来たアメリカ自動車産業の繁栄こそが正に日米自動車競争の遠因であると分析されている。(註)
それはまた日本に対する”前者の轍を踏むなかれ” の警鐘とも言える。

1978年以来日本(〜米国)車の排ガス規制の強化と小型車高性能低価格競争力の強化等に依る日本自動車メ−カ−の体質改善による販売攻勢、79年の第二次石油危機以来のガソリン値上げ、異常なインフレ、金利の高騰、円高、低燃費競争などによってアメリカ消費者のアメリカ車離れ、デトロイト自動車労働者他の失業増大等々でアメリカ自動車産業はより絶望的な苦境に陥いるに至った。
 
ジミ−・カ−タ−政権
は何らかの自主規制をすべきだとやっと保護貿易政策に踏切り、日本に要望 (UAW=全米自動車労働組合=のダグ・フレーザー委員長が1980年に来日、日本の輸出自主規制と対米現地生産工場進出を要請) をしてきたが、本格的交渉は次のロナルド・レ−ガン政権に引き継がれた。

日米摩擦で日本政府側が考えていたことは、やはりベストは自主規制しかないだろうということだった。自由貿易主義者のレーガンは積極的ではなかったが、日本政府に受け入れる用意があると判断し、当時USTR(米国通商代表部)の代表のビル・ブロックを5月に日本へ派遣し正式に要請してきた。トヨタ・日産は当初強く拒絶するものの日本はそれを受け入れざるを得ず、1981年遂に3年間の期限付きで 「対米乗用車輸出自主規制として年間上限固定値で168万台」 と踏み切った。(92年には165万台。1994年まで継続した)。政府間の日米摩擦解消はそこで決着がついたように見えた。が・・・・
 
 しかし、トヨタにとっては、日米貿易摩擦を回避するためフォードとの提携交渉よる対米工場進出が不調となった今、そのままでは独自で進出するしかない壁に突き当たる。日米摩擦をトヨタ自身で解決するには、後はGMと手を握るしかないと判断した。
 当時合併前のトヨタ自動車工業の社長は豊田英二氏、トヨタ自動車販売の社長は豊田章一郎氏で、自販は加藤誠之氏が会長(54年より)であったが、加藤氏は戦前に日本GMで苦労された関係からGMとは充分なコンタクトがとれ得たのであった。そこで1981年暮、デトロイトへ飛びロージャー・スミス会長と会う。 「一緒にやりましょう」 とネゴシエイトしたところ、「トヨタとGMとの pertnership に前向きに取り組もう」 との約束を取りつけた。
デイビッド・ハルバ−スタム著”The Reckoning” 覇者の奢り
 
その後のGMとの折衝に当たっては、当時伊藤忠米国本社のJ・Wチャイ副社長の貢献に負うところが多かったと言われる。GMの当初構想がいすゞとススキとの提携であったが、そのときにチャイ副社長が日本側の窓口となりGMのロージャー・スミス氏との間に密接な折衝の経緯もあって、チャイ副社長とは以心伝心の間柄であったため、トヨタとGM交渉の話はスム−ズに展開したものと考えられる。
 翌57(1982)年7月無事工販合併し、社名もトヨタ自動車株式会社と変更され豊田英二氏会長となる。
 
1984年2月アメリカにGMと合弁でNUMMI (New United Motor Manufacturing. Inc=50:50、生産と販売
=カリフォルニア州フリーモントの旧GM工場) を設立、同12月生産開始に至る。同時にトヨタ KAMBAN生産方式=ジャスト・イン・タイム・システムも米本土に上陸したのである。

註:北米国工場の稼働経過:
1982年本田、83年日産、87年マツダ、88年三菱・トヨタ(単独工場)89年日本全8社
分析参照文献:
デイビッド・ハルバ−スタム著”The Reckoning [ 覇者の奢り ] ”'87-5-20日本放送出版協会発刊 )
 
参照 【日本車生産台数推移の参考資料】 世界主要国の乗用車・トラバス合計生産台数
     (参照資料:日本自動車工業会 単位:千台〜構成比%)
 
1981年の7月にブレ−キ会社で東京から転勤、名古屋に赴任した
 
Nobbie
の愛称で親しまれた我が社長は、東京から名古屋の久屋大通越え東区桜通武平のトヨタ自販と豊田市トヨタ町のトヨタ自工本社への頻繁な訪問が開始された。
勿論お相手は当時の自工豊田英二社長、自販では加藤誠之会長と豊田章一郎社長であって、濃密な折衝会談が繰り返された。合併後加藤誠之会長は引退された(相談役)。
 
名古屋(駅)〜自販〜豊田工場本社間を、我がNobbie社長の送迎安全運転が、小生の重要任務。我が社長には 「加藤会長が私の先輩」 だとは遂に漏らさなかった。

我が国の自動車工業発展のため、その基礎となる部品工業を育成するとの趣旨から1950年 『機振法(機械工業等振興臨時措置法)=機械工業の設備機械化と生産技術の向上を促進』 が時限立法として制定された。
 
自動車部品工業会の視察報告書としてNobbie取締役(当時)が纏め作成され、生産性本部から出版された 『アメリカ自動車工業の実態』 (業界・学者間でアメリカの自動車が強力なのは、多くの部品を内製しているからであると言う議論が罷り通っていた誤りを指摘) が高く評価され、同時に通産省と協力して日本の部品工業の実態調査に当たられ、これ又膨大な統計資料に基づく純ロジカルな報告書 『日本自動車部品工業の実態』 を刊行された。
 
これが 1956年 「機械工業振興法」 と言う政府と部品工業界共通の施策の基礎となり、戦後の自動車及び部品工業の発展に強力な影響と顕著な貢献をもたらしたことは素晴らしい功績である。

 またアメリカに於ける数多の業界著名人・ロビ−イスト及び政経文化人との交流人脈は驚異的な程広く、上記の伊藤忠米国本社のJ・Wチャイ副社長(当時)及びその夫人:日本の自動車産業のめざましい台頭を予言、ウオ−ル街で最も優秀で高い評価を受けている含蓄鋭い自動車産業・経済アナリストの マリアン・ケラ−女史とも例外ではなく密なる親交が在り、加えて天性の厳しい洞察力、理解力の閃きと見識は常人とは思えないくらい際立ち、全人的で偉大な真の国際人です。
名古屋営業所竣工時 玄関での記念写真から 昭和59(1984)年12月撮影CanonAE-1 今更ながら、Nobbie社長(曙ブレ−キ工業株式会社 信元安貞社長:当時)を軸にして、波乱万丈の日米自動車業界にあってトヨタ自動車と我がブレ−キ会社の次代の飛翔に向かって目眩く胎動し始めていたそんな時期に、在任した名古屋での7年間(1981〜88年)は奇遇で貴重な体験だった。Nobbie社長がトヨタ・トップとどんな会談をされたかは勿論識る由もなく、蛇足ながら、誠に濃度の密な内容であったであろう事は申すまでも無かろう。

トヨタと当ブレ−キ会社との強い絆は既に昭和43(1968)年5月に確立されていた。当時のトヨタにとって来るべきモ−タリ−ゼ−ションに備え、トヨタ年間200万台生産体制の一環としてトヨタ内製ブレ−キ会社の設立が不可欠との判断で合弁ブレ−キ専門生産会社 ”豊生ブレ−キ工業株式会社=当社はドラムブレ−キの技術提供:社長信元安貞氏12年間兼務、後ディスクブレ−キも生産” を設立している。
 
Nobbie社長の 「日本車と米国車は決して対立するのではなく、相互補完関係にある」 との持論とトヨタの 「競争と協調」 の精神が合体して展開されたトヨタの工販合併、続いてGMとのJ/V 「 NUMMI」 の設立(84年)、単独工場TMMU (Toyota Motor Manufacturing U.S.A ., Inc =自動車生産・販売=Kentucky州) の稼働(88年) と慌ただしい波乱の連続、そして我が社の対米進出の為に、GMとの対等出資J/V会社を日本事業初の進出となるケンタッキ−州はエリザベスタウンに 「AMBRAKE Corp.」 (信元久隆社長)を86年に設立、88年5月生産開始へとその道程は誠に険しかったものの、合弁に対する豊田英二会長(現最高顧問)の
「いいじゃない、おやりなさい(挑戦そして決断へ)」 の激励のお言葉・更にその立て役者チャイさんの絶大なご尽力に関してNobbie社長は 「私は幸せ者だった」 との述懐を、後日私に漏らされた。
 「商魂80年」石田退三著、「決断」豊田英二著、「車笛」「自動車と私」信元安貞著
参考文献:
信元安貞著 『自動車と私』  曙ブレ−キ工業株式会社 名誉会長 平成10年7月当社発刊。
信元安貞著 『車笛』−<車談義:日刊自動車新聞社63年6月発刊。
豊田英二著 「決断」 私の履歴書 60/9日本経済新聞社
「商魂八十年」=石田退三 自叙伝 48/10非売品
 
註:信元安貞氏 1984年5月 日本自動車部品工業会会長に就任〜1990年。
註:現在 Jay.W.Chai 氏 当ブレ−キ会社の指導に当たる最高顧問。

ついでの話:

● Nobbie社長はトヨタ工販合併後も豊田本社、さらには音羽のトヨタ 花井正八氏(元自工会長)のお宅訪問及び名古屋城の名古屋キャッスルホテル会談が相変わらず精力的に頻繁に続けられ、お供させていただいた。

●名古屋在勤の中頃の1985年10月16日阪神タイガ−スは神宮球場で対ヤクルト戦で5−5引き分けるもセ・リ−グ優勝。翌日信元社長を都ホテルで出迎え豊生ブレ−キ・トヨタへお連れするときの社長のご機嫌は最悪。何しろ最高の読売ジャイアンツ・フアンでした。
11月2日日本シリ−ズで西武を4勝2敗で勝ち日本一となった年だった。(監督:吉田義男氏)

● Nobbie社長を豊田本社玄関で降ろし待機するわけだが、その後は 「こちらでご案内させていただく」 と秘書室課長が一切を取り仕切ってくれた。名刺には吉村 進氏 (後東京秘書部長) とあった。
後(63年9月)東京転勤の頃知ったが、彼が
昭和37年甲陽卒43回生の後輩だったとは驚きであった。なお会談後、豊田英二・章一郎両氏の玄関まで見送って頂くのが恒例であった。
 
又豊田英二氏は東京出張の場合、気さくに新幹線では普通席のご利用が通常で、小生の東京出張と偶々ご一緒となり、直ぐ近くの3列席の真ん中にお座りになったが、東京までアイマスクを掛けっぱなしだった素朴な面影が今でも懐かしい。

【急遽追記】
このHPを作成している最中、突然の2003年5月14日付け報道でこの 『訃報』 に接した。
 愕 然

 ・・・・・・・・・・・・信元安貞さん82歳(のぶもと・やすさだ=元曙ブレーキ工業会長)8日午前4時58分、心筋梗塞のため死去。「追悼式」は6月23日午前11時、東京都港区虎の門2の10の4のホテルオークラ。
葬儀委員長は長男の久隆同社社長。・・・・・・・・・・・・・

 茲にNobbie社長には30年間身近に侍り、Nobumoto学級で 「販売と品質管理の神髄」 のなんたるかに就いて、身に余るご指導とお世話に預かりましたことを、心からお礼を申し上げ、ご冥福をお祈り申し上げます。哀悼の想いは感無量ひとしおです。合掌。

−1− おわり                     
  
考証・引用・参考出典 『甲陽学院創立70周年記念誌』 『学院誌資料編第一輯』
   
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